狼と香辛料 狼と金の麦穂 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 狼と香辛料 狼と金の麦穂 STORY 支倉凍砂 Isuna Hasekura ILLUSTRATION 文倉十 Jyuu Ayakura [#改ページ] 麦穂がゆらゆらと目の前で揺れている。 [#改ページ] 土を柔らかくするために、 牛だの馬だのがのそのそと歩いていたのはついこの間のことだった気がする。 種が播かれるのを眺めるのは好きだったので、 その時のことははっきりと覚えている。 取り除き忘れた石の上に落ちたり、 きちんと柔らかくなっていなかったところに落ちたり、 せっかく柔らかい土の上に落ちても小鳥についばまれたりするのを、 のんびり眺めていた。 芽が出て、茎が伸びて、一丁前の麦の形を取るのは本当にあっという間だ。 こちらがちょっと目を閉じたり、よそみをしているうちにすくすくと伸びていく。 当然、その間にも、抜き忘れた雑草と一緒に育つ麦の向こうでは、 たくさんの人が鍬を振るい、あるいは空に向かって祈っている。 水路もよく詰まるし、逃げ出した牛や羊が麦を踏み荒らすこともある。 その上、虫の襲来を防ぐ手立てなどほとんどない。 今しがたも、のんびり昼寝をしている鼻先をバッタが飛び越えていったばかり。 人々が収穫の鎌を振るうときに殊更嬉しそうなのも、 まあ、理解できないことではない。 [#改ページ] ざく、ざく、ざく、と心地よい。 見渡す限りに広がった金色の世界。 その隅っこから、波のように鎌の音が押し寄せてくる。 力強くて、疲れ知らずだと思って油断してはいけない。 尻尾の中にうずめていた顔を上げれば、意外な光景に目を細めることもある。 [#改ページ] 畑で一番綺麗な音を立て、軽快に進んでいるのは細身の娘たちだったりする。 皆揃って細い麦藁で編んだような三つ編みの髪を揺らし、 くるぶしまで届く三角のスカートを穿いて、勇敢にも裸足で畑に入っている。 [#改ページ] つい先ほどは、人間たちの収穫の時期など露ほども気にかけていなかった蛇が、 突然のことに泡を食って脇をすり抜けて逃げていった。 目を閉じて、しばし甲高い娘たちの悲鳴と笑い声を楽しんだ。 彼女らが手にしているのは身長ほどもある大きな鎌。 ちょっと見比べてみれば、自分の尻尾ほどもあるかもしれない。 そんな大きな鎌を振るうには、どう見たって腕が細すぎる。 しかし、そこが人の知恵。 長い柄の途中につけられた取っ手を持ち、体全体で鎌を振るうのだ。 麦は、 ざく、ざく、と刈り取られていく。 [#改ページ] 土手で囲まれたのは一面の麦。 さながら金色の池。 そこにはたくさんの居候がいる。 虫、蛇、鳥、兎、鼠、 たまには怪しげな風体の人間だっている。 池の外からはわからない、池の中だけの世界。 [#改ページ] たまには村の子供たちがかくれんぼをしにくることもある。 年に一回か二回は、尻尾を踏まれるか、 転んで泣き出す子供たちの大声に昼寝を妨げられたりする。 ただ、魚と違って人間が泥水の中で視界が利かないように、 この池の中で見つかることは滅多にない。 それでもたまに、気づかれることがある。 そういう連中は村よりも外から来た人間に多い。 大概疲れ切っていて、空腹が空腹だとわからなくなるくらい空腹で、 ついに麦畑に倒れこんだ彼らは、 ただ瞼だけを開けてぼんやりと横たわっている。 そういう時、彼らはふとした拍子に池の中の世界を見ることがある。 どんなに考えても解けなかった難問が、力を抜いた途端に解けるように、 彼らはひょいとこちらに気がつくのだ。 ほとんどは夢だと思うらしい。 まあ、わからないでもない。 子供でも立ち上がれば顔が出るような金色の池の中に、 こんなにも大きな狼がいると信じるには、人の肝はやや小さすぎる。 幻覚か、と疲れたように笑う彼らの笑顔は好きでもあり、悲しくもあり。 [#改ページ] それでも、なにかにつけ例外はある。 疑うことを知らない無垢な子供。 あるいは、世の中なにがあっても不思議はないと知っている手垢まみれの大人。 彼らとは時折会話をする。 声をかけられて無視するのも悪い。 鼻の辺りを撫でられて吼えるのも芸がない。 池の中で同居する仲間を失敬して、馳走を振る舞うこともある。 尻尾の中で、あるいは脚の中で、暖を取らせてやることもある。 顔を舐めてやるのは子供だけ。 その理由は、彼らの頬は大抵、麦畑の中では珍しい塩の味がするからだ。 手に枷の痕をつけた者。 まさに枷がついている者。 手が強張って、眠っていても杖代わりの棒切れを手放せない者もいる。 彼らはしばしばこの池の中で養生する。 なにせ池の底で仰向けになっていれば、麦粒だけは目の前に山ほどある。 一粒取っては軽く揉んで、ゆっくりと口に運ぶ。 水は、この自慢の毛皮の上に降った雨粒を、上手に口に注いでやる。 [#改ページ] 彼らと共に外に行きたい、とはもう思わない。 楽しい旅があったのも事実だが、 今は池の底でのんびりするのがいい。 ざく、ざく、という鎌の音を聞きながら、 池の中の住人が慌てふためく様を眺めていた。 [#改ページ] 最後まで麦穂の合間で震えていた兎殿も、ついに意を決して外に飛び出した。 長い耳を伏せて身を縮こまらせ、鎌の行方を気にしているようではあったのだが、 その真後ろで鎌よりも恐ろしい牙をもった狼がいるとは気がついていなかったらしい。 意を決して飛び出すとき、彼の蹴り上げた土が顔にかかった。 怒っているわけではな。 世の中そんなものであることを、多少なりとも知っているだけである。 物事は流転する、と賢しらに振る舞うつもりも特にないのだが、 年に二回、こうした光景を見ているとそんなことをしたり顔で言ってみたくもなる。 二匹の兎が番になるのをみたり、 麦の茎を食べる虫をついばむ鳥を狙う蛇が狐に襲われるのも見た。 麦畑の中で睦言を囁きあう村の娘と青年が来たこともあったが、その時はさすがに外に出た。 長い年月を生きていれば、人の姿に化けて日の下を歩くこともあったのだ。 [#改ページ] 空にぽっかりと穴が開いたように満月が輝く夜。 大きく遠吠えしたい誘惑に駆られつつも、 月明かりを浴びて目を細めるにとどめておいた。 彼らの顔ぶれは大して変わることもなく、 概ね毎年似たようなことが繰り返される。 大あくびをして、 尻尾を枕にのんびりと彼らのことを思い出す。 しかしそんな具合なので、 思い出そうとしても 今年のことなのか去年のことなのかは、 とっくのとうにわからなかった。 [#改ページ] ざく。 鎌は目の前を通り過ぎ、 それを最後に静かになった。 [#改ページ] 見渡す限りに広がっていた金色の水面は、今や干上がって水たまりを残すのみとなっている。 毛皮の上でそぎ落とし損ねた毛が殊更醜いように、残された水たまりは正直無様と言えるだろう。 これまでは好き放題足を伸ばし、尻尾を揺らし、時折は大きく体を伸ばして伸びなどもできた住処。 今は尻尾を丸め、顔を下げていなければならないほどに狭くなっている。 とはいっても、狭い場所はそれほど嫌いでもない。 広さとは距離であり、狭さとは近さだ。 これまでは麦穂の遠くに眺めていただけの人々の顔を、まじまじと見ることができた。 去年よりも綺麗になった娘。精悍になった青年。落ち着きを増した夫婦。 そして、姿の見えなくなった何人かの若者に、新しく増えた子供。 最後に刈り残された水たまりの周りに、彼らが笑顔で集っていた。 手に手に食べ物を持ち、子供たちは麦藁で作った人形を握り締めている。 目を細めてつい笑ってしまう。 それくらいに不細工な、狼の藁人形だ。 [#改ページ] [#ここから10字下げ] 歌に踊り、笛に太鼓。 いつもは日没と共に闇が支配する麦畑も、 今夜ばかりは灯りに満ちていた。 麦を刈ったばかりの、なんとも言えない香ばしい空気は、 収穫の最後を告げる喜びの芳香だ。 わずかに残された麦の隙間から、じっと、静かに見つめている。 [#ここで字下げ終わり] ふと、灯りがかげったのは踊り騒ぐ者たちの足元がだいぶ覚束なくなってから。 こちらも、何度か酔っぱらった男たちが酒を振りまいてくれたので、 麦に滴るやつを舐め舐め楽しんでいた時のこと。 牙だらけの口の中に舌をしまって、目を細める。 [#改ページ] 麦と外の世界との境界に顔を近づけているのは、右手に小さな狼の藁人形を、 左手に今晩のご馳走らしい焼いた兎の腿肉を握り締めた、小さな子供だった。 じっと、こちらを見つめている。 目は確かに合っている。 互いに互いを見つめ合っている。 ぞろり、と牙を剥いたのは威嚇ではない。 子供はびくりと体をすくませたが、すぐに気がついたらしい。 にへら、と笑って、臆することもなく池の中に手を入れてきた。 [#改ページ] 小さな右手が乱暴に鼻先をまさぐってくる。 握り締めていた狼の藁人形のことは忘れてしまったらしい。 もっとも、この凛々しく美しい形のよい鼻と、 その藁人形とを比べるなどというのは愚かしいこと。 子供がこちらの魅力の虜になるのは当たり前といえる。 若干子供の手が乱暴に過ぎたが、おとなしくされるがままになってやった。 鼻をまさぐり、軽く突き、毛を撫で、掴む。 驚くほどに小さい指が、ちょんとこちらの髭の根元をつまんで、つつー、と端までなぞってみたり。 唇の柔らかさに驚いたり、短い髭が爪の間にでも入ったのか、 手を引っ込めたこともあった。 彼、あるいは彼女がその後一番ためらったのは、 この全てを噛み砕く大きな牙に触ろうかという時。 その小さな手だと、牙の間に挟まったゴミを取るのにすら小さすぎる。 圧倒的な力の差を見せつけて、此方と彼方を分け隔てる絶対の象徴。 [#改ページ] それでも、子供の好奇心はどんな英雄の勇気にも勝る。 恐る恐る伸ばされた手は、やがて真っ白い牙に触れる。 その時、こちらが驚いてしまったのは、その手が右手ではなかったこと。 牙に触れたのは左手であり、兎の腿肉を握り締めていたほうの手だ。 今、兎の腿肉はこちらに向けられている。 子供の笑顔と共に。 年に何回も食べられないご馳走を。 尻尾が、わさりと音を立てた。 [#改ページ] こら、という大きな声だった。 子供は、兎もそこまでは跳ねない、というくらいに体を弾ませていた。 すぐに首根っこを掴まれて、池の中から引っこ抜かれてしまう。 あれこれ怒られているものの、 彼、あるいは彼女の視線と注意は完全にこちらに向けられていた。 お叱りなど右から左で、じっとこちらを見つめている。 叱る大人もようやく子供の様子に諦めたらしい。 あるいは、祭りの最中に怒るのもつまらない、と思ったのかもしれない。 ため息をついて、子供の頭を乱暴に撫でていた。 [#改ページ] 子供が何も持っていないと気がついたのはそんな折り。 どこに落としてきたのかは一目瞭然だ。 藁人形はすぐに見つけることができた。 儀式めいた妙な振る舞いをして、 頭を低くして麦穂をかき分けるとそっと藁人形を拾い上げていった。 それを子供に押しつけると、今度は肉のことを思い出したらしい。 問いかけると、子供はゆっくりとこちらを指差した。 [#改ページ] 大人はこちらと子供を見比べて、もう一度麦穂を掻き分けて頭を突っ込んでくる。 しかし、肉はどこにもない。 大人はもう一度聞くが、結果は同じ。 子供の勘違いだと思ったのか、肩をすくめ、その背中を押して祭りの環の中に戻ろうとした。 子供が振り向いたのはその瞬間。 彼か彼女かも曖昧なほど幼いその子供は、 大人に手を引かれて歩きながら、振り向いてはっきりとそれを見せた。 にひひ、という笑顔。 正直に言おう。 きょとんとしてしまったのはこちらのほう。 口に残る脂を舐め取りつつ、ぞろりと牙を剥いてやった。 [#改ページ] 歌と踊りに力がなくなり、座り込んだまま彼らが立ち上がるのもそろそろ諦めてしまった頃。 焚き火の勢いもなくなったせいで、空には欠けた月と満天の星座が再び戻ってくる。 村人全員が今日だけはとばかりに羽目を外す中、 一人年老いた村長だけが真面目くさった顔を変えていなかった。 おもむろに腰を上げると、幾人かのお供を連れて静々とこちらに歩み寄ってくる。 手には、酒と食べ物、それに麦束を持っている。 [#改ページ] いくつかの土地を経てここに流れついたが、人は必ずこの手の儀式をやりたがる。 姿を見ることもできないし、 見せたら見せたで怯える上に、麦が不作の時は陰に陽に罵ったりと好き放題。 我慢できずに飛び出した村もあった。 それでも、彼らはなぜか儀式をやめようとはしない。 不思議なことだとは思う。 こちらとはまったくなんの関係もない祈りの文句や、 一から百まで決まった手順の作法にのっとって、酒やご馳走を並べていく。 今更それに喜ぶことはないし、呆れたり怒ったりすることもない。 川に水が流れるのを眺めるように、じっとしているだけ。 今年の豊作を感謝する言葉に、来年もまた豊作になるようにという言葉。 ここはえらく儀式が細かい割に、おとなしいので楽といえば楽。 派手なところでは、跳んだり跳ねたりとえらい騒ぎなのだ。 その分、ここは、供え物が粗末なのでどっちもどっちかもしれない。 もっとも、今年は、あの子供のお陰で脂の滴る肉を食べられたのだが。 [#改ページ] 儀式は終わり、宴も後始末がぼちぼち始まっていた。 彼らには収穫の次は脱穀が待っている。 それを粉にしなければならないし、藁は編まなければならない。 やることは山ほどあり、日々はずっと続いていく。 一年の間に、それとわかるほど特徴的な日は、本当に数えるほどしかない。 あとはずっと日常の連続であり、そんな生活が年単位で繰り返される。 昨日は今日と、去年は今年と似通っている。 ずっとあり、この先もずっと続くかと思われるような日々。 それが苦痛だったこともあった。 心地よいこともあった。 今は、そのどちらでもない。 [#改ページ] 村長たちも片付けの環の中に入り、 こちらは供えられた酒の器にちょいと舌を這わせて目をつぶる。 思い出すのは、そんなまどろみのような毎日とは違う、人の世に紛れていた刺激的な日々のこと。 あの時に飲んだ酒は、ひどいものもあったし素晴らしいものもあった。 肉は概ねうまかった。 パンは、まずいもののほうが多かった。 ただ、側にいた者はいつだって何物にも代えがたかった。 もうはるか昔のことなのに、こんなにも明確に思い出せるのだから。 [#改ページ] 月明かりの下で、 宴の始末をする村人たちの姿をぼんやりと見つめている。 何も考えずに、というのは明らかな嘘。 尻尾の枕に頭を乗せ、目は空ろに遠くの土手を見つめていた。 月と星に照らされた、夜道を行くには最適な日。 村や町が近ければ、きっとちょっとした無理をしてしまうだろう。 人の姿に化けていると荷馬車の硬い荷台の上で眠るのか、 それとも柔らかいベッドの上で眠るのかには大きな違いが存在するからだ。 よく相手をせっついて、先を急がせた。 あのときのことを思い出して、軽く笑う。 旅をしたい、とはもう思わない。 でも、もう一度できるなら、と思ってしまう。 [#改ページ] もそり、と顔を起こし、空を見る。 綺麗で真っ白な欠けた月。 息をゆっくりと、吸い込んだ。 今日はお祭り、無礼講。 笑って、目をつぶる。 [#改ページ] 村人たちの驚く顔が心地よい。 今日はよく眠れそうだった。 [#改ページ] PROFILE 作◎支倉凍砂 1982年12月27日生まれ。 『狼と香辛料』にて第12回電撃小説大賞〈銀賞〉を受賞し作家デビュー。 イラスト◎文倉十 1981年生まれ。京都府出身のAB型。 現在関東にてフリーイラストレーターとして活動中。 DVD付き限定版 狼と香辛料 狼と金の麦穂 2009年4月30日 初版発行 ●著者 支倉凍砂 ●イラスト 文倉十 ●ブックデザイン 渡邊宏一(ニイナナニイゴオ) ●発行者 高野 潔 ●発行所 株式会社アスキー・メディアワークス 〒160−8326東京都新宿区西新宿4−34−7 電話03−6866−7311(編集) ●発売元 株式会社角川グループパブリッシング 〒102−8177東京都千代田区富士見2−13−3 電話03−3238−8605(営業) 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